演劇評論家 中村 義裕
「地獄が恐うおすのんか? 修羅がそんなに恐ろしおすか。好いた男と見る修羅や。おちる地獄や。おちとみやす…」。作品の終盤で発せられる登場人物の言葉が、実際に頭の上で聞こえるような気がして、戦慄が走ったのを憶えている。
歌舞伎は既に見始めていたので、歌舞伎の世界や歴史の大まかなことはある程度わかってはいた。しかし、江戸時代から時空を超えて現代の京都・嵯峨野で展開されるドラマと、こういう形での結び付きを見せるとは、予想だにしなかった。演劇科で芝居の勉強をしたにも関わらず、何とも恥ずかしい限りだ。
舞台になっている京都・化野の念仏寺を訪れたのは、それから四、五年ののちだっただろうか。同行した友人も、『花曝れ首』を読んでたちまち赤江病の患者になり、師走の京都へ出掛けた。
12月に出掛けたのは、観光客が少ない閑散期で、宿泊費が安かったことも大きかったが、四条河原町の南座で毎年恒例の「顔見世興行」を観るためでもあった。
中学生の頃から歌舞伎に惑溺していた私は、もう大学生の頃はいっぱしの歌舞伎通気取りで、アルバイト代を貯めては年に一度の顔見世通いを始めた。
その日程を一日増やし友人と念願の化野へ出掛けた。
念仏寺までの坂道は、作品でも描写されているようにそう賑やかではなかった。
ようやく目的の念仏寺へ着き、無数とも思える小さな石仏が所狭しと並んでいる「西院の河原」も見た。
これが、あの念仏寺か!との感激があった一方で、正直に言えば違和感をも覚えていた。何かが違うのだ。
日差しの弱い12月で、多少曇ってはいたものの、極端に天気が悪いわけではない。昼を過ぎたばかりでも、他に観光客もいない静かな場所だ。暫く無言で友人と寺内を散策し、帰路に着いた。市の中心部へ向かう嵐山電車に揺られながら、友人も同じ感覚を得たと語った。それは何だったのだろうか、と話していて気付いたのは、私たちの頭の中には、すでに『花曝れ首』で描かれていた赤江さんの化野念仏寺の光景が勝手に出来上がっていたのだ。
そこには、存在するはずのない春之助と秋童の、二人の色子の気配がなかったのだ。
考えてみれば当然の話で、物語の中の人物がその場に存在するはずもない。しかし、そう思わせても不思議ではないほどの鮮烈なイメージを作品が持っている、ということだ。
多くの読者が「赤江瀑ベスト」などを選ぶ折に、必ず上位にこの作品がランクインしているのも、当然のことだ。
それから30年以上の時を経て、同じ時期に京都で顔見世を観ている折、小半日時間が空いた。それは良かったのだが、あいにく外は冷たい冬の雨がかなりの勢いで降っている。暫し考えたが、今しかない、と贅沢を承知で化野へタクシーを飛ばした。京都は30分も走れば明らかに空気も気候も違う場所へ行ける。幸い、ホテルが中心部からややはずれていたので、そう時間はかからず、化野へ着いた。
辺りの景色は、以前とほとんど変わっておらず、30年の歳月などなかったような佇まいを見せている。時期や天候のせいもあるだろうが、周りには人っ子一人いない。大急ぎで寺内へ入り、「西院の河原」へ行ったが、大粒の冷たい雨に濡れそぼった石仏群は、余計 儚げに見えた。
何も変わっていないことにゆえもなく安心し、タクシーへ走る途中、何かの気配を感じた。それが春之介と秋童であれば話は出来過ぎで、何の気配だったのか、それはいまだにわからずにいる。
「花曝れ首」
嵯峨の野の奥、小倉山の北山麓といえば、このあたりは夏のさかりの日曝らし道を歩いていても、闇の黄泉路のおどろなかげが、ふと見あげた揚げ店造りの人家の軒端や木立の葉裏、草間の底にさまよい出でて、眼を灼く陽ざしにつつまれてはいるけれども、なにやら手まねき袖引きする黒い見えないものの手が、不意に間近で身をおどらす。
赤江瀑「花曝れ首」より冒頭部分

